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涙を流す事はストレスを発散させます。 みなさん良い涙を沢山流して下さい。 泣ける話を集めてみました。 さぁ、どうぞ。
かぁちゃん頑張っています。
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2024/04/24 (Wed)
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泣ける話

2012/01/29 (Sun)

1990年5月、婚約者が肝臓ガンで余命半年と宣告された。
自分より2歳年下の彼女は当時25歳、将来の生活を想像し、
お互い希望に胸膨らませ、幸せの絶頂にあった2人にとって、
それは到底絶え難き試練であった。しかし、彼女は強かった。
事実を受け入れ、最期まで諦めずに生きると誓ってくれた。
そこから2人3脚の闘病生活が始まった。大型トレーラーの
運転手である自分は勤務が不規則ではあったが、それでも、
出来る限り彼女の病室を訪れ、励まし、応援を送り続けた。
彼女もそれに応えるように治療に望み、一歩ずつではあるが
歩き続けた。その結果、その年の9月には、2人で北海道を
旅行出来るまでに回復した。そして、一縷の望みが生まれた。
『もしかしたら、彼女は助かるかもしれない!』

話は2泊3日の旅の初日、小樽を訪ねたときに進む。当時、
小樽では『石原裕次郎記念館』の建設工事が進められていた。
母親の影響で、子供の頃から裕次郎のファンだった彼女は、
『もし、私に奇跡が起こって、再び小樽に来られたときは、
 一番に石原裕次郎記念館に来てみたい。』
と言っていた。自分もその言葉に微かながらも希望を持った。

しかし、その奇跡が起こることは無かった。札幌の時計台を
訪れたとき、『恋の街札幌』を唄っていた彼女は、それから
3ヶ月余りが過ぎた1990年12月5日早朝4時31分、
『お爺ちゃんに会いに行って来る!』という言葉を残して、
お婆ちゃん、両親、弟と妹、そして、自分に看取られながら、
大好きだったお爺ちゃんのところへ旅立っていった。

昨年、彼女の13回忌を済ませ、自分も今年40になるが、
自分の心の中に永遠に生き続ける彼女を支えにして、今日も
生きているのである。

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泣ける話

2012/01/20 (Fri)
今から8年前あの当時、僕が20歳、彼女が19歳の時でした。
付き合って一年ぐらい経過していました。SEXは共に経験がなく
彼女の意向で結婚するまではしたくないとの事で、私は我慢するしか
なかったのです。
 そして、初めて迎えるクリスマス、彼女からのプレゼントは
横浜の夜景が見えるホテルの部屋をとってくれてました.
そんなお金よくあったなーと、思いつつウキウキ気分で
クリスマスイブを迎え、お互い初めてながらもなんとか
SEXすることができ、痛かったのか彼女は涙をながしていました。
 でも、それが最初で最後のSEXになるとは、しかも彼女の涙の
意味もその時は知る由もなかったのです。

新年を迎え1月4日にまだ一度も合ったことのない彼女の
両親に病院に呼び出されました。妊娠でもしちゃたのかなーなんて
思いながらビクビクしながら病院に行ったのを覚えてます。
お父さんから「キミが○○君か、キミには悪いことしたなー」
僕「いったいなんのことですか?」父「娘はもって3ヶ月の命だとのこと
病名は急逝白血病だ・・・」沈黙が流れ、ただ涙がこぼれるだけでした。
病室に行くとそこには無菌室のビニールシートで覆われた彼女がいました。
普通の人と変わらない健康そうな彼女が、ただ一枚のビニールで隔てられ
触れることも出来ず、ビニール越しに手のぬくもりを感じるだけでした。
 病気を治す唯一治療法として骨髄の移植しかありませんでした。
結果として両親、妹も骨髄が一致せず、あとは骨髄バンクのドナー待ちと
なりました。
 1月後半ともなると、徐々に体も衰弱していき、悪いことに
肺炎を併発してしまいました。僕も出来るだけ病院に行き、出来るだけ
一緒にいようと思い彼女を励ましました。しかし励ましてもどうにもならない
ことは知っていました。
 肺炎を伴いながらも2月を迎へ、そして運命の時は突然やってきました.
夜9時ぐらいにお父さんから電話があり、僕は病院へ急ぎました。
病室に入るとすでに、両親と妹、そして主治医と看護婦数名がいて
なにが起こってるとすぐ察しがつきました。
彼女は小さな声で僕を呼んでいて、何かを言っており、主治医が
彼女を覆っているビニールを捲り上げました。
僕はさらに近寄り、彼女の口元に耳を近ずけました。
息を吐いたような声で「今まで・あ・り・が・と・・・」
そこで、彼女の意識は無くなり、20分ぐらいして息を引きとりました。
なぜか、涙も出ることがなくただ、漠然と彼女との思い出を
振りかえる自分がそこにはいました。
くしくも、その日は2月14日のバレンタインデーで、
彼女がお母さんに預けていた手紙とチョコをいただきました。
その手紙の内容は詳しくは書きませんが、一部としてすでにイブの日に
病気にかかっていた事、女になりたかったとの事が書かれていました。
今思えば、ウキウキ気分でホテルに行った自分がはずかしい・・・
 あれから4年後僕は結婚しました。妻にはすべてを話し一緒に
涙を流してくれました。女の子も生まれ、なんと妻の提案で
彼女の名前を付けてくれました。感謝しているよ。

 毎年2月14日には家族3人でお墓参りしています

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