泣ける話。感動する話。号泣集。 忍者ブログ

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2024/05/17 (Fri)
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泣ける話

2012/02/16 (Thu)

自分は父の顔を知らない。
自分が2歳の頃、交通事故で死んだそうだ。
母に「お父さんの名前、なんて―の?」とか
「お父さんの写真、見して!」とか
「お父さん、メガネかけてたの?」とか聞いても、黙って首を振るだけだった。

父がいない分、母は毎日朝早くから遅くまで仕事をしていた。
酷いときには、1週間母を見ない日だってあったのだ。

そんな時、面倒を見てくれたのが祖父母。
誕生日もクリスマスも、祖父母と一緒。
母とは土日に外出するくらいで、正直何を話したら良いのか全然わからなかった。

小学校のときは
「お母さんはカッコよくて、頭が良くて、仕事もすごい出来るんだ」
と、よく自慢していた。
でも、本当はそんな自慢なんていらなかった。
母とちゃんと話がしてみたかった。

そんな時、いつも思うのが死んだ父。
父がいたら、母とも毎日話せた。
父がいたら、母がこんなに仕事をすることもなかった。
父がいたら、父がいたら、父がいたら…
そんな思いがひたすら溢れた。
祖父母は大好きだ。文字の書き方からきゅうりの切り方まで全部教えてくれた。
それでも、やっぱり…
母は父のことを教えてくれないだろう。絶対に。

そんな小学生時代に終止符を打つように、母の再婚が持ち上がった。
小学校の卒業と同時に、県外に引っ越し、新しい父と母との3人で暮らすということだった。
実際、自分は本気で祖父母の所に残ることを考えた。
小学校の友達と離れるのは辛い。でも、それ以上に祖父母と離れるのが嫌だった。
それでも、母の涙に折れて引っ越すことになった。
その時はまだ知らなかった。
母のお腹には新しい父との子供がいた。

新しい父は妹が産まれるまでは優しかった。
しかし、妹が産まれた途端、がらりと変わってしまった。
理不尽な怒り方ばかりしかしない。
母の前では優しいのだ。なのに、母がいないと口調も変わる。
それは2年経った今でもちっとも変わらない。
どうしようもなく、辛くなっても話せる人がいなかった。

先週、祖父母を訪ねたときに今まで教えてくれなかった父の墓を聞いた。
全てを話すと、祖父母はこっちに引っ越して来いと言ってくれた。
でも、それは出来ない。
母にもその事実を話さなくてはいけない。母はきっと悲しむ。
今まで、母親らしいことをしてくれなかった母でも、母が悲しむのは見たくない。

そして今日。
祖父母から父の命日だと聞いていた日。
学校を休んで亡き父に会いに行きました。
父の墓は綺麗に掃除されていて、花も供えてありました。

「お父さん、自分はもうすぐ高校受験です。
 今まで会いに来れなくてごめんなさい。
 お父さんの顔は分からないけど、辛い時にはここに来ます。」

本当に父に会いたいと思った。

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泣ける話

2012/02/15 (Wed)
私の父は四年前、私が中二のときに長年患っていた病気で亡くなりました。

父は昔受けた、手術の時の輸血でC型肝炎に感染、肝硬変を患っていました。
父の病状は私が生まれてからはそれなりに安定していたのですが、
私が小学生に上がるとき、体調を崩して入院しました。
病状はかなり悪かったようで、一時は危篤にもなり、
母は『もって五日です。』と医者に言われたそうです。

母は私に泣きながら言いました。
『あなたのお父さんは他のお父さんより早く死んでしまうかもしれないけど、他のお父さんと同じようにあなたを愛しているの。
他のお父さんよりちょっと一緒にいる時間が少ないだけなの。
お父さんは自分の寿命が他の人ほど長くないのを知ってたから、
あなたに短い時間でたくさんの思い出を残そうと思って
沢山旅行につれて行ってくれるのよ。』
その時初めて私は、私たち一家が他の友達の家より
はるかに沢山の旅行をしている理由を知りました。

その沢山の旅行の中でも我が家のお気に入りはランドでした。
父は奇跡的に危篤の状態を脱し、徐々に回復していきました。

その年の冬、父が入院中に外泊をした時に、家族でランドへいきました。

私が『どうしてうちはいつも旅行って言うとランドなの?』と聞くと、
父は『嫌な事を全部忘れられるからだよ。』と答えました。
小さかった私にはその答えの意味がよくわかりませんでした。

私は久しぶりに父と一日中過ごせることが嬉しくて
いつも以上にはしゃいで遊びました。
でも帰る頃には私の心は真っ暗闇でした。
私は旅行が楽しすぎて、不安になってしまったのです。

父と過ごす楽しいこんな旅行は一体後何回あるのだろう?
そう思うと悲しくて自然と涙が出てきました。
父も母も私を心配して『どうしたの?』と聞きましたが、
『お父さんが死ぬのが怖い。』と答えるわけにも行かず、
『お父さんがまた病院に帰ってしまうのが寂しい。』と答えました。

父は無事退院し、何度も入退院を繰り返しましたが、
その間に何度もランドへ行っては楽しい思い出を作りました。
私は小学校高学年になり、中学受験を控える身となりました。
塾で忙しく、今までのようにランドへ行くわけにはいかなくなりました。

『○○(私)の受験が終わったらまたディズニーランドへいこうな。』
それが父の口癖でした。

そして受験を数日後に控えたある日、父は血を吐いて緊急入院しました。
『お父さんに最後に良い知らせ(合格)を聞かせてあげてね。』
医者が私に言いました。

訳がわからないまま受験の日を向かえ、合格発表の日を迎え、
私は無事志望校に合格し、父もまた奇跡的に危篤の状態を脱しました。

しかし以前のようにランドへ行って遊ぶ体力は父にはありませんでした。
またいつ病状が悪化しても良いようにと、旅行は病院から二時間以内の所に限られました。
残念なことに、ランドは二時間以内のところにはありませんでした。
京都や大阪へ何度か旅行するうちに一年と少したち、父はまた入院しました。
母は病院に泊まりこみ、私は親戚の家へ預けられました。

父は25年の闘病生活で、3度奇跡の回復をしました。
一回目は私が生まれる前、そして小1のときと中学受験のとき。
四度目の奇跡は、ありませんでした。
結局父はそのまま、退院することはできず、帰らぬ人となりました。

一年間の喪が明け、私と母はランドへ行きました。
父なしでランドへ行くのは初めてでした。
はじめは父なしで楽しむことなんてできるだろうか?と思いましたが、
ゲートをくぐったとたん、私のそんな不安はなくなりました。

ランドは父がいた頃と変わらず私たち母子を迎えてくれました。
ランドの至る所に父と過ごした思い出があって、胸が熱くなりました。
『お父さんと一緒に乗ったな』とか『お父さん、これ好きだったな』とか。
普段思い出せないような父の笑顔や笑い声までが鮮やかに思い出せました。
私は母と『毎年ランドにいこうね』と約束しました。

私は今年大学受験なので、今年はランドに行くことはできませんが、
受験が無事終わったら真っ先にランドへ行きたいな、と思います。

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