俺も嫁さんも
そこの豆腐が大好きで
よく買いに行くのね
その豆腐屋さんは
城下町の路地裏で
すごく小さいんだけど
堅実に商売やってて
近所のばあちゃんとかが
ずっと買いに来る
去年の7月頃
いつものように豆腐と
厚揚げを買ってたら
ふらっと40代くらいの
白人男性が入ってきて
トニュートニューって
言ってたので
店のおばちゃんが
豆腐を入れようとしたら……
NO!NO!NO!
トニューって
飲む真似をしたんで
あ!!!お前、豆乳かよ!!
って俺も嫁さんも
おばちゃんも
ビックリした後、吹き出した
だって外人さんが
豆腐屋に豆乳買いに
来るなんて思っても
なかったからorz
その店は豆乳を
分けて貰う時は
何か入れ物を持って
行くようになってて
店の大将も
どうせ捨てる物だから
格安で売ってくれるのね
(ひしゃく一杯50円くらい)
勿論、成分無調整
なべに張ったら湯葉が
出来るくらい濃いの
それでおばちゃんが
何か入れ物持ってるか?
ボトル、ボトルって
なげあいで聞くんだけど
なかなか通じなくて
僕らに意味深な視線を
投げかけてきた
外人さんもおばちゃんに
つられてこっち見るし……
そこでうちの嫁さんが
(そこそこ英語できる)
間に入って何とか通訳
嫁:「何か入れ物
持ってますか?」
外:「いや持ってない
なんで??」
嫁:「ここの豆腐屋さんは
豆乳を買う時、何か
入れ物を持ってくるんですよ」
外:「へーそうなんだ
今持ってない
(少し悲しそうな顔)」
おば:「これで良かったら
入れたげようか?」
と言って透明の
ナイロン袋を出してきた
外人さん、ニコニコ顔で
それでいいです
ウンウンみたいな感じ
外:「この豆乳、今
ここで飲めますか?」
嫁:「いや、それは
無理じゃないかな?」
みんな困っている
奥から大将が出てきて
事情を話すと
ニコッと笑ってコップに
豆乳を汲んできて
外人さんに手渡すと
アリーガトーって
右手にコップ持ったまま
変な発音と、変なお辞儀に
一同爆笑www
飲み終えた外人さんは
すごく美味しい!
グレート!!
とか言いながら
大将とがっちり握手して
その日は去って行きました
それからしばらくして
店先に縁台が出来たので
大将に聞いてみると
あの外人さん(ジョウさん)が
ちょくちょく顔を出すらしく
(観光ではなくて
仕事で来てるみたい)
その時にそこに座って
豆乳を飲んでるんだってさ
店の中の販売スペースが
狭いから(一畳くらい)
ホームセンターで
大将が買ってきたらしい
大将が暇な時や
ばあちゃん連中が
一緒に座って
言葉がなかなか
通じないけど
雑談してるんだって
(どんな雑談だよww)
大将いはく
草の根外交だとww
年のいったお客さんも
そこで一休みして帰るから
置いて良かったみたい
ジョウさんは
夏は冷奴(ミョウガ抜き)
秋は秋刀魚
冬は湯豆腐、豆乳鍋
牡蠣フライ等でビールを
飲むのが大好きだそうです
この頃日本酒に挑戦しだす
挙げ句の果てには
大将の奥さんから家庭料理の
作り方を習いだす
帰国したら奥さんと
一緒に作るんだってさw
そして今年の春は
桜の下でドンチャン騒ぎ
(ジョウさんの奥さんも
来日されていて
僕らも行きました
桜は初めて見たそうですが
樹全体が緑ではなく
ピンクにお化粧することが
エキゾチックで
ファンタスティック
らしいです)
僕が個人的に大好きで
真夜中に歩くお堀端の
桜並木をおすすめしたら
奥さんと夜中に
散歩したそうです
静寂の中で一年に一度だけ
咲き乱れる花の
生命力を見ていると
心が締め付けられ
亡くなられたおじさんを
思い出して思わず
涙ぐんでしまったそうです
ジョウさんいはく
昼の桜が美しく楽しい
ポジティブであるならば
夜中の桜は恐れや不安
ポジティブな要素が
浮かんでくるが
それら全てを
包み込んでくれる
優しさを感じた
とおっしゃっていました
そんなジョウさんでしたが
無事に仕事が終わり
先月6月末で
ロサンゼルスに
帰国されるとのことでした
帰国される日
お店に立ち寄られたそうです
お別れの挨拶を
しに来たジョウさん
「大将、今から帰ります……」
ジョウさん、もうこの時
すでに涙でぐちゃぐちゃ
だったらしいです
お別れ会(大将いはく壮行会)
をした時は
絶対に泣かない、絶対に
ジョウさんのこれからの
人生に水を差すから
俺は絶対に泣かない
って目頭押さえて
頑張ってた大将も
帰国の挨拶に立ち寄った
ジョウさんの次の一言で
号泣したそうです
アリガトー、アリガトー
マター サクラノー
キノシターデー
オーアイ シーマショウー
ニホーンニ コレナクテーモ
ワターシハ サクラノー
ニュースヲ ミルタビーニ
ミナーサンノコート
オモイダシマース
相変わらず変な
発音だったそうですが
ジョウさんの心意気は
しっかり大将に
届いたみたいよと
話してくれた、おばちゃんも
俺も嫁も大将も
涙と鼻水と笑顔で
じゅるじゅるに
なっていました
ひょんな事から始まった
とある豆腐屋さんでの出来事
大将いはくジョウさんは
日本人の気構えを持った
アメリカ人だと
言っておりました
1996年11月の四川省の寒村
若い未婚の男性農夫が
草むらに捨てられた
女の子に気づきました
赤ちゃんを育てるのは
貧乏な彼にとって重い負担
そう考える彼は何回も
赤ちゃんを
抱き上げては下ろし
立ち去っては戻りました
最後の、彼は
命が尽きそうな赤ちゃんに
つぶやきました
「私と同じ、貧しい食事を食べてもいいかい」
と……。
独身のまま一児の
父親になった農夫は
粉ミルクを買うお金もない為
赤ちゃんはお粥で
大きく育てられました
病気がちな体は
心配の種でしたが
聡明で近所から
とてもかわいがられたのは
お父さんの救いでした
女の子は5歳になると
自ら進んで家事を
手伝うようになりました
洗濯、炊飯、草刈りと
小さな体を一生懸命に
動かして、お父さんを
手伝いました
他の子と違って
お母さんがいない少女は
お父さんと2人で
家をきり盛りしました
小学校に入ってからも
少女はお父さんを
がっかりさせたことは
ありませんでした
習った歌をお披露目したり
学校での出来事を話したりと
お父さんを楽しませました
━…そんな平和な家庭に
突然の暗雲がたれ込みました
2005年5月のある日
少女は鼻血が、なかなか
止まらない状態になりました
足にも赤い斑点が出たため
お父さんと病院に行くと
医者に告げられた病名は
『急性白血病』でした
目の前が真っ暗になりながら
お父さんは親戚と
友人の元に出向き
借りられるだけの
お金を借りました
しかし、必要な治療費は
30万元、日本円にして
400万円です
中国よりずっと裕福な日本でも
庶民にとっては
大金になるような治療費を
中国の農民が、どうにか
できるはずもありません
集めたお金は
焼け石に水でした
かわいい我が子の治療費を
集められない心労からか
日々痩せていく
お父さんを目にして
少女は懇願しました
「お父さん、私、死にたい
もともと捨てられた時に
そのまま死んでいた
のかもしれない
もういいから……
退院させて下さい」と。
お父さんは少女に背を向けて
溢れ出た涙を隠しました
長い沈黙の後
「父さんは家を売るから
大丈夫だよ」
と言いました
それを聞いて、女の子も
泣き出しました
「もう人に聞いたの
お家を売っても
1万元しかならないのでしょ
治療費は30万元ですよね」
と……。
6月18日
少女が読み書きできない
お父さんに代わって病院に
『私は娘への治療を
放棄する』
との書類を提出しました
彼女はまだ8歳でした
幼い子に辛い思いを
させてしまったことを
知ったお父さんは
病院の隅で泣き崩れました
そして娘を救うことのできない
自分を恨み、運命の
理不尽に怒りを覚えました
娘は生まれてまもなく
実の父母に捨てられた上に
貧乏な自分と1日も
豊かな生活を
経験したことがありません
8歳になっても靴下さえ
履いたことがありません
それでなくても辛い人生を
歩まなくてはいけなかったのに
さらに追い打ちをかけて
病に苦しめられるとは
退院して家に戻った少女は
入院する前と同じように
家事をし、自分で体を洗います
お父さんに、自分は勤勉で
かわいく、そして綺麗好きな
娘として記憶に残して欲しい
そう願いながら、1つだけ
お父さんに甘えました
新しい服を買ってもらい
お父さんと一緒に
写真を撮ってもらったのです
それもお父さんを思っての事
「これで、いつでも
私のことを思い出して
もらえる」と━━…
ささいな幸せな日々も
終わりが見え始めてきました
病気は心臓に及び始め
ついに彼女は学校に
行くのもままならなく
なりました
苦痛から、学校に向かう小道を
一人カバンを背負って
立ち尽くすこともありました
そんな時には、目は
涙で溢れていました
少女の死が近づいたころ
ある新聞記者が病院側から
この話を聞き、記事にしました
少女の話はたちまち
中国全土に伝わり
人々は彼女のことで悲しみ
わずか10日間に70万元の
寄付が集まりました
女の子の命はもう一度
希望の火が灯され
彼女は成都の児童病院に
入院し、治療を受け始めました
化学治療の苦痛に少女は
一言も弱音を
吐いたことがありません
骨髄に針を刺した時さえ
体一つ動かしません
他の子供も違って
少女は自分から
甘えることをしないのです
2カ月の化学治療の間に
何度も生死を
さまよいましたが
腕のよい医師の力もあって
一度は完全回復の
期待も生まれました
しかし……
やはり化学治療は
病が進行し、衰弱していた
少女の体には
無理を強いていたのです
化学治療の合併症が起き
8月20日、女の子は
昏睡状態に陥りました
朦朧とした意識の中で
彼女は余命を感じます
翌日、看病に来た新聞記者に
女の子が遺書を渡しました
3枚もの遺書は
彼女の死後の願いと
人々への感謝の言葉で
埋め尽くされています
8月22日
病魔に苦しめられていた
女の子は静かに逝きました
少女のお父さんは冷たい娘を
いつまでも抱きしめ
涙を流しました
インターネット上も
涙に溢れかえり
彼女の死のニュースには
無数の人々が
コメントを寄せました
8月26日、葬式は
小雨の中で執り行われました
少女を見送りに来た人に溢れ
斎場の外まで
人で埋まりました
━━━……
女の子の墓標の正面には
彼女の微笑んでいる
写真があります
写真の下部に
『私は生きてました。
お父さんのいい子でした。』
とあります
墓標の後ろには
女の子の生涯が
綴られてありますが
その文面の最後は
『お嬢さん、安らかに
眠りなさい。あなたがいれば
天国はさらに美しくなる。』
と誰かによって結ばれています