泣ける話。感動する話。号泣集。 忍者ブログ

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泣ける話

2011/01/18 (Tue)
私の実体験です。かなり長文です。私の母には妹がいる。本当に友達みたいにいつも仲が良かった。妹夫婦には子供が出来ず私が小さい頃には、うちの父があまり遊びに連れてってくれなかったのもあり、第二母とか言ってた。優しさもあり厳しくもある人だった。そんな私も中学になり遊びが楽しくなって、学校すらいかなくなった。その時にはいつもうるさく叱られた。もちろん聞く気もない私は『はいはい』だとか適当に返事をする。内心『うるさい!うざい!』とか思って会うのすら嫌だった。私が17の時そんなおばちゃんが乳癌になったって聞いた。あまり病気の事なんか良く分からなくて、どうせ手術で治るし~って感じで深く考えもしなかった。手術も終わって徐々に回復し元気になったのに、母から今度は転移したって聞かされた。色々な病院に行ってたみたいだけど、私はまさに遊び盛りの時期。本当に無関心だった。母は看病に専念する毎日。母は家に帰ると今日はど~だったとかおばちゃんの様態を話してくる。でも段々看病に疲れてるその様子が伝わってくる。私も一回ぐらいお見舞い行かなきゃって思って家族でお見舞いに行く事にした。お見舞い行って唖然と・・した。抗癌剤で髪の毛も抜け落ち綺麗なおばちゃんの姿とは別人。言葉も上手く喋れなくなってる。たまたま寄ったロッテリアのシェークを一生懸命口動かして『ちょうだい』って言うの。そんなおばちゃんを見て、正直予想もしてなかったおばちゃんの姿、悲しさと、なんだか怖くなって病室に居られなかったの覚えてる。それからしばらくしてある朝、病院から連絡があり他界しました。通夜に葬式…こんな時こそ母を支えなきゃと葬式では涙をこらえた。その夜布団の中で号泣だったけど。小さい時『おばちゃんが年とったら面倒見てね』って言ったよね。実現できないじゃん。本当にすごく好きだったよ。病院生活1人で孤独で怖かったよね。救えなくてごめんね。 今は後悔でいっぱいです。

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泣ける話

2011/01/15 (Sat)
中2の12月、私はあることがきっかけで不登校なった。
それを母がひいばあちゃんに相談した。2人だけ私が学校に行ってないことを知ってい
た。

学校に行けなくなって半年、ひいばあちゃんが足の手術と心臓の検査の為、入院した。私
は2日に1回くらいのペ-スで病院に通い、小さな背中を拭いてあげた。

2ヶ月弱で退院して、元気になった。笑顔だったから、元気に見えただけかもしれない。
退院後すぐ、ひいばあちゃんが田舎にある親戚の家に住む事が決まり、新幹線の見送りに
東京駅に向かった。何故か泣いてしまった。もう会えないような気がしたから…。

私が不登校になってちょうど1年たったとき、ひいばあちゃんが亡くなったと言う連絡が
届いた。死因は大動脈りゅう破裂。即死だったらしい。聞いた瞬間涙が出なかった。ぽっ
かり穴があいたように、ただぼ-っとしていた。
遺体をみた時も、お葬式のときも涙が出なかった。

ひいばあちゃんが死んで5ヶ月後、高校に入学した。偏差値の低いバカ学校だけど、それ
でも入学出来た。
ひいばあちゃんが1年前に言ってた言葉をひとつずつ思い出した。

「このままじゃニ-トになっちゃうよ」
「ママを苦しめちゃだめだよ」
「高校合格したらお祝いしてあげるからね」

後悔した。なんで生きてる間に学校行ってなかったんだろう?ひいばあちゃんは、私の心
配だけじゃなくて母の事も心配してた。母と喧嘩したとき、一番に側にいてくれたのは、
ひいばあちゃんだった。
私は何も恩を返してない…。

今声が届くなら、ちゃんと言ってあげたいな。「学校行けるようになったよ!」「高校合
格したよ!」って。

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